注 本日記はMTGとは一切関係ありません。また長くなってしまったのでご注意を


誰も得しないF木のアニメ日記へようこそ!
今回は明日8/31に劇場版公開を控える「あの花(あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。)」について語ります。

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F木とあの花
F木があの花を初めて知ったのは書店をぶらぶらしている時でした。ダ・ヴィンチという文芸誌に特集が組まれていて、文芸誌なのにアニメ?と興味を惹かれてパラパラと眺めました(当時は萌え豚でもアニオタでもなかったのです)。放送は終盤にさしかかっていてDVDを買わないと序中盤は見られないことを知り、ヒットしてるから見たいけどDVD買うのは抵抗があったので諦めました(繰り返しますが、当時は萌え豚でもアニオタでもなかったからです)。
転機が訪れたのはそのすぐ後です。何気なく見ていた番組表の中にあの花四夜一挙放送の文字が!期待と興奮に胸躍らせて録画しました。
いざ1話目を見てみると、話にどんどん引き込まれていきました。序盤は説明らしい説明もなく、めんまはなんなの?という疑問を抱いて見ていくと発覚する死んでるという事実。夏の終わり、昔の友達、死者の霊という要素がうかがわせる感涙必至の予感。そしてめんまかわいい。エンディングのじんたんが玄関を飛び出すところは鳥肌が立ちましたね。
1話目を見終えたところで最終的にめんまは消えなくてはならないということに気づき愕然としました。このまま見ていけば感涙必至のストーリーを楽しめるだろう。しかし最終回を見終えた後どれほどあの花(めんま)を引きずってしまうのだろう、と。そこで続きの視聴はまとまった時間が確保できるまで保留にしました。あの花によってアニメの力を思い知らされたので、それ以降アニオタ(萌え豚)への道を求道し今に至ります。
要は見たいけど見られないとか言ってあの花から逃げているだけです。劇場版公開を控えるこの夏、さすがにあの花と向き合わなくてはならない。たとえどれだけ引きずったとしても、見てない俺にファンたる資格はありません。極論ですが、明日死んでしまうとしたらあの花を見ていないことを絶対後悔することでしょう。だったら逃げずに見るしかない!

ではどう見るか?
メディア論という分野にマーシャル・マクルーハン(~1980)という人がいます。メディアもまたメッセージである(The medium is the message.)という主張でメディア論に新風を吹き込みました。以下は教官の示した例です。森鴎外の『高瀬舟』を読むとする。文庫で読むか、電子ブックで読むか、それとも鴎外直筆の原稿を読むかで読者の読書経験は異なるものになるだろう。またテクストの形態以外の要素(例えば場所)も読書経験に影響を与える。文庫で読む場合でも電車の中で読むのか、それとも図書館で読むのかで読書経験は異なるだろう。
F木はメディアはメッセージに影響を及ぼすというこの考え方に非常に納得できます。あの花を満喫するにはどのメディアでどう見ればいいのでしょうか?
選択肢は
①2年前のテレビ版
②今年の劇場版
③ノベライズ
④コミカライズ
といったところでしょうか。小説から行くか映像から行くかなんとも悩ましいですね。小説から映像化へと作品をたどると描写の少なさにやきもきすることが多いです(ハリー・ポッターとか氷菓とか)。逆に映像から小説へたどるのは想像が型にはまってしまいがちで小説として楽しむのが難しいです(新世界よりで体験しました)。しかしここで考えあぐねていても問題は解決しないので、メディアのことは意識しつつもえいやっとあの花の世界に身を投げ込んでみることにします。

拙い文に付き合っていただきどうもありがとうございました。機会がありましたら、あの花を見終えた後の『続・あの花論』でお会いしましょう。では!
F木

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